平成11年3月 電子情報工学科 卒業
平成14年3月 専攻科 電子機械工学専攻 修了
大阪大学 大学院工学研究科 准教授
衣斐 信介
平成14年3月に専攻科を修了してから14年の月日が経ち、現在は大阪大学大学院工学研究科にて、未来を担う若者の人材育成とICT技術の進展に微力ながら貢献できるよう日々精進しております。母校の鈴鹿高専にて、平成11年4月に奥井重彦先生(鈴鹿高専名誉教授)の研究室に配属され、統計的通信理論の魅力に取りつかれて以降、一貫して「無線通信」を専門としております。
注意深く上記の電子情報工学科卒業年度と専攻科修了年度の差分を見た人はお気づきかと思いますが、専攻科の修了に3年を費やしています。これは、オーストラリア大陸をバイクで一周するための1年間の休学によるものです。大学編入学を考える時期に、自分には人に誇れるような経験が全くなく、自分の将来像が描けず、漠然とした不安を感じていたことを今でも覚えています。この不安を取り除くための人生経験を目的として、バイクの旅を実行しました。旅ではもちろん楽しいこともあったのですが、正直なところ苦痛なことも多かったです。大陸を半周したあたりから、何のためにバイクを走らせているのか意味が分からなくなりつつも、目標の一周を経験した瞬間にその意味が分かると信じて、ひたすら走り続けました。しかし、一周を達成した瞬間には期待していたような達成感は無く、「一年間を棒に振った。これはまずいぞ...」という恐怖感だけが残りました。
その恐怖感から学んだことは、これまで中途半端にしてきた学生の本分である学問とそろそろ向き合わなければ、おそらく先には進めないであろうということです。そこからは気持ちを入れ替え、大阪大学大学院工学研究科通信工学専攻の大学院入試の勉強に励み、なんとか入学することができました。バイクの旅の経験で培った、現在位置と目標位置を定め、ひたすら目標達成に注力する根性は役に立ちました。しかし、大学院入試の合格は新たなフィールドの入り口であり、本当の苦労の始まりはここからでした。大学院にて研究室に所属されると、基礎学力の観点から太刀打ちできない優秀な学生たちがそこにはいたからです。同じ土俵で戦っては勝てる見込みはないと判断したので、研究のネタが重複しないよう、その当時研究室では誰も取り組んでいなかった時空間無線信号処理技術の研究テーマを立ち上げました。幸運なことにそのテーマが時流に乗り、高い評価を頂き、大阪大学の助教、フィンランド、ドイツ、イギリスにおける客員研究員とフィールドを変え、現在は准教授をしております。
私の個人的な考えではありますが、上記のエピソードから在校生の皆様にお伝えしたいことが二点あります。一点目は、何か特別な経験を一つしたからといって、その瞬間に人間が変わることはないという事実です。ただし、何かを成し遂げたときには、次に進むべき道が見えているはずです。その道の取捨選択を経験に応じて繰り返すことで、気づいたときには新たなフィールドが用意されているかと思います。フィールドが変わると新たな問題設定に出会い、その解決に注力することで充実した日々を送ることができます。二点目は、幸運を成果に繋げるためには、常日頃から、その幸運を受け入れるための準備をしなければならないという事実です。たまたまの成果で評価されることはよくあります。しかし、継続して成果を出すためには、幸運を見逃すことなくすべてをキャッチする力が重要となります。幸運は待つものではなく捕まえるものです。皆様が、より多くの幸運を捕まえられよう、日々精進することを願っております。
平成12年3月 電子情報工学科 卒業
平成14年3月 専攻科 電子機械工学専攻 修了
独立行政法人日本スポーツ振興センター
国立スポーツ科学センター
スポーツ科学部 映像・情報グループ
田中 仁
東京オリンピック・パラリンピックまで残り2年を 切った今、私は国立スポーツ科学センター(以下 「JISS」と記す.)で日本代表選手の強化や支援に 携わっています.平成7年に電子情報工学科に入学 して専攻科まで進学し、鈴鹿高専には7年間も在籍 していました.高専時代で記憶に残っていることの 一つは、毎週のようにあった電気電子回路などの実 験とプログラム作成などの実習、そしてそのレポー ト作成です.当時は辛い思いしかありませんでした が、同じ班の仲間と実験方法を考えたり、単位や有 効数字に注意しながらレポートを作成したり、考察 のために図書館で調べたりと、理系の基礎をしっか りと叩き込まれ、私の社会人生活に少なからぬ影響 を与えてきたと思います.もう一つ記憶に残ってい ることは部活動です.音楽部に所属していましたが、 当時顧問であった山口愼司先生には大変お世話にな りました.残念なことに山口愼司先生は既にお亡く なりになりましたが、卒業して16年経った今でも音 楽部の同級生とは付き合いがあります.
卒業後は名古屋の番組制作会社に就職して約3年 間勤めたのち、今の勤め先であるJISSに平成17年に 転職しました.ただし、契約社員として4年間だけ 務める予定でしたので、契約が終わったら東海地方 に戻って会社を探すつもりでした.JISSでは、前職 での経験を買ってもらい、当時の上司が私のために 「映像処理技術者」という新しい職種を作って迎え てくれました.トップスポーツの世界では、当時か ら練習や競技会で映像を撮影し、競技力の向上に利 用していましたが、JISSではスポーツ用の映像デー タベースを開発しており、全く同じタイミングで転 職してきたもう一人の方と共に開発運用に携わるこ とになりました.しかし、なんとそのもう一人も長 野高専の卒業生であったことには驚きました.実は、 上司が高専プロコンの審査員を長年務められていて、 高専生に対する印象が良かったのかもしれません.
入社4年目の平成20年には北京オリンピックが開催 され、私もカヌースラロームという競技のサポート で現地に行きました.そして、この年で契約が終わ る予定でしたが、運よく正社員に登用され現在に至 ります.平成25年には東京オリンピック・パラリン ピックの開催が決まり、JISSとしても大きなプロジェ クトが立ち上がったり組織改編があったりして、忙 しい日々を過ごしております.
JISSで私が所属している映像・情報グループとい う部署は、約20人のスタッフがおります.プログラ マ、SE、ネットワークエンジニアなどがおりますが、 ほぼ全員が民間企業からの転職組です.「ITでスポー ツを支援したい!」という熱い気持ちを持ったスタッ フが集まっています.東京オリンピック・パラリン ピックで日本のアスリートが活躍する裏で、JISSの ITエンジニアも微力ながら貢献できるようにこれか らも邁進してまいります.
最後になりますが、鈴鹿高専の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます.