鈴鹿市内一周駅伝競走大会42年の歩み






  平成8年10月

筆者   都築 正則、 勝田 叡

目        次
    はじめに
 第1章 鈴鹿市の成り立ち 第6章 鈴鹿市内駅伝の発祥(S.30〜32)
第2章 戦後からの転換期 第7章 一般チームの加盟(S.33〜38)
第3章 日本のスポーツ 第8章 一般チームの増加(S.39〜45)
第4章 最初の駅伝競走 第9章 駅伝の広がり(S.46〜49)
第5章 駅伝の老舗 第10章 町から街へ(S.50〜58)
  東京ー箱根往復大学駅伝競走 第11章  統一大会以降(S.59〜H.)
                      まとめ

はじめに

 平成8年3月に一つの記録集が発行された。「鈴鹿市内駅伝競走大会40年誌 全選手記録集」と題したその冊子は、勝田叡が、愛知学芸大学の学生であった昭和30年に始まり、今日まで続いている鈴鹿市内駅伝競走大会出場全チームの順位ごとの走破記録、区間記録、出場全選手など年次順にまとめたものである。
 鈴鹿市陸上競技協会より出版された鈴鹿市内駅伝40年誌は、大会運営委員として第1回より参加している勝田叡が、40年にわたる総ての記録を勝田自身がワープロに打ったものであった。  鈴鹿市という一地方都市における市内駅伝大会が昭和30年に始まり、今日まで毎年続けられてきているということは、広い意味での市民運動の一つのありかたを示すものではなかろうか。そして、年次ごとに系統的に整理されたその全記録をみていくと、そこには40年という時の流れを感じると同時に、記録という域を脱して、鈴鹿市における市民の一つの歴史に携わってきたという思いがする。  鈴鹿市内駅伝よりも古くて、現在も行われている駅伝には次のものがある。
 「東京箱根間往復大学駅伝競争」 関東学生陸上競技連盟主催、読売新聞、    報知新聞、    日本テレビ網(株)後援、現在は、大手町読売新聞社前ー芦ノ湖駐車場    往復10区間、213.9Km、 大正9年2月14日に第1回開催。
 「京都学生駅伝競走大会」 関西学生陸上競技連盟京都支部主催、京都新聞    後援、現在は、洛北新コースで、7区間56.8km, 昭和3年1月22日    に第1回開催。
 「名岐駅伝」 愛知陸上競技協会、岐阜陸上競技協会、中日新聞社共催、    現在は、一般の部は、大垣スポーツセンターー中日新聞社間の54.0km,    高校の部は、本郷町ー中日新聞社間の6区間41.6km, 昭和5年10月    19日に第1回開催。
 「中国駅伝」 中国陸上競技協会、中国新聞社共催。福山ー広島間、8区間    107.1km, 昭和6年(月日不明)に第1回開催。
 「全国実業団対抗駅伝競走」 全国実業団体育連盟、全国マラソン連盟、読    売新聞社、報知新聞社、東京、神奈川、埼玉、茨城、栃木陸上競技協会    共催。現在は、東京浅草寺ー日光社寺表参道間10区147.9km, 昭和27    年(月日不明)に第1回開催。
 「全国高等学校駅伝競争」 日本陸上競技連盟、全国高等学校体育連盟、毎    日新聞社共催、現在は、京都西京極競技場ー烏丸鞍馬口ー国際会館ー西    京極競技場一周7区間42.195km, 昭和24年1月5日に第1回実施。
 「朝日駅伝」 九州陸上競技連盟、朝日新聞社共催、現在は、福岡朝日ビル    前ー小倉北区勝山公園前間7区間102.7km, 昭和25年2月5日に第1    回を開催。
 また、三重県に関係ある大きな駅伝には次のものがある。
 「全日本大学駅伝対抗選手権大会」 全日本学生陸上競技連合、朝日新聞社    共催、熱田神宮西門ー伊勢神宮内宮前間7区108.9km, 昭和45年3月    10日第一回開催。
 また、四日市でも、四日市中央緑地運動公園を会場にして、「四日市総合駅伝」が「鈴鹿市内駅伝」と同じ日に行われている。ここ数年は、150余のチーム、1,300人ほどの選手が参加する大きな大会となっている。伊勢でも「県青年駅伝大会」、員弁郡では、「員弁郡一周駅伝」、亀山市でも「市民駅伝大会」など県下でもいろいろ行われている。
 三重県下では、鈴鹿市内駅伝は歴史が最も長いものである。全国的にみると、現在300程の駅伝が毎年各地で行われているようである。このように多数のリレー式の競争を「駅伝」と称している。これだけ増えてくると、どの範囲の競走が「駅伝」といえるのか、その定義が問題になってくる。「広辞苑」では、「長距離を継走する競技で、数人で一チームをなし、各々一区を継走すること」と定義している。「平凡社世界大百科事典」となると、もう少し厳密である。「駅伝競走  道路上で行われる長距離の
リレー競技。距離、地形、区間の分け方、参加人数に制限はないが、1区間最低2km, 少なくとも10区間ないと駅伝競走とはいえない。各走者は受け持ち区域を走り、つぎの走者にバトンまたは『タスキ』を引き継ぐ。云々」この定義に従えば、10区間のないものは、「駅伝」とは言えないことになる。10区間を走るコースを設定できるような駅伝競走は、実際には少ないのではないか。日本の最初の駅伝競走の企画実行者の土岐善麿は大正6年に、京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競争」と命名した。そのいきさつは、江戸時代の交通通信制度である「駅伝」、「駅制」、「駅逓の制」でもあった。「道路を何人かの人に引き継いで目的地に荷物などを届ける」制度を念頭におき、最低限「一定の距離の道路を何人かが継走する競技」であれば、「駅伝」と命名してもよいのではないか、と思われる。 (注1)
 さて、鈴鹿市内駅伝は、昭和30年に始まって現在も継続しているものである。この駅伝が、規模の大きさや、記録重視ということよりも、いろいろな階層の、鈴鹿市内の幅広いチームに門戸を広げた方法で開催されてきたということ。こうした市民レベルの大会が40年以上も継続して行われてきて、そして、筆者の勝田は、40年余にわたり最初から、毎回の記録、運営面に直接関与し、すべての記録を整理してきたのである。その記録を手がかりにして、鈴鹿市内駅伝の歴史をここにまとめておきたいと思うものである。
 当論文は、平成7年3月鈴鹿市陸上競技協会発行の「鈴鹿市内駅伝競走大会40年誌」を基礎資料として、勝田叡のこれまでの大会運営経験、あるいは関係者からの聞き取り、新聞、その他参考文献によって内容の補完を行った。鈴鹿市体育協会、鈴鹿市陸上競技協会、毎日新聞社、鈴鹿市役所の関係者、貴重な本を貸していただいた広島大学図書館、東京学芸大学図書館、あるいは本校関係者には本論文執筆に際してはいろいろお世話になった。心よりから感謝したい。

第1章  鈴鹿市の成り立ち
 鈴鹿市内駅伝競走大会の歴史をまとめるに際して、鈴鹿市のなりたちにすこし目をむけてみたい。  鈴鹿は歴史的にみると、中核をなす町が発展して今日の姿になってきたのではない。時代の要請から、周辺地域との合併をくりかえして今日を形作ってきたのである。江戸時代は、神戸藩、旗本小笠原領、亀山藩領、津藩領、紀州藩領など、いくつもの領地に分かれていた。こうしたいくつかの領地に分かれていたことは、明治維新となって廃藩置県が進められていった後にも影響した。  鈴鹿市の今日は、明治憲法が、明治22年に発布されるのに伴い、市制、町村制が明治22年に施行された時代にさかのぼることができる。この時に現在の鈴鹿市の地区では、鈴鹿郡、河曲(かわの)郡、奄芸(あんげ)郡など百余村が、白子、神戸の2町と、石薬師村以下20の村に合併されて、おおよその原形ができた。
 この地区では、広大な山林や畑地があり、鈴鹿川の水は、条里制水田を潤し、稲作が盛んであった。しかし、内陸部や海岸部は稲作の水を確保するためには、用水は不可欠であり、江戸時代から用水をめぐる争い(水論)は、内部(うつべ)川の用水にしても、鈴鹿川の用水にしてもしばしばあった。白子、江島、野町の地区の用水難は深刻であったが、その頭文字をとった白江野用水が明治20年に完成すると、稲作は一層さかんになった。
 鈴鹿の地区は、四日市港に近く、道路、電車など交通の至便性、肥沃な田園地帯、年間を通して西北西の風が吹き、季節風も一定していた。このことは、軍の施設の建設には好条件をなしていた。そのため、昭和12年に日華事変が勃発すると、軍事施設の適地として鈴鹿地区が選ばれた。昭和13年の鈴鹿海軍航空隊及び基地を初めとして、鈴鹿海軍工廠などの軍施設が、続々と作られていった。町村合併に関しては町村間で意見の対立もあったが、その調停に奔走したのは鈴鹿海軍工廠建設主任海軍大佐内田亮之輔であった。また、市制施行に関する内務省の調査官に対する三重県としての説明も、内田大佐が県の依頼を受けて行った。中心市街がなく、町村合併で市制を敷くことは前例のないことであったが、ただ鈴鹿海軍工廠に協力するという大きな理由で、市制がしかれることとなった。(注2)  昭和17年12月1 日付けにて、白子町、神戸町、石薬師村、稲生村、飯野村、河曲村、一ノ宮村、箕田村、玉垣村、若松村、国府村、庄野村、高津瀬村、牧田村の2町12村にて人口5万2千人、面積102平方キロメートの鈴鹿市が誕生した。
 戦争が激化に伴い、こうした軍事施設が十分に機能を発揮するまでに至らず、日本は連合国に無条件降伏をし、終戦となった。市制施行2年余にして、敗戦となり、これらの軍事施設はもはやその機能を失った。それれの軍事施設は工場、住宅、農地などとして転用が検討されていった。国策に協力して鈴鹿市として町村合併した鈴鹿市ではあったが、終戦後の混乱期には、もともとは寄り合い所帯であり、市として使命を失っているので分離したいという住民運動が起こったことがある。しかし、昭和23年頃までには、分離運動も住民投票により終止符をうった。その後、鈴鹿市は軍需工場の跡地などをもとに、盛んに工場誘致を行った。主に昭和20年代後半から、昭和30年代半ばにかけて幾多の工場が誘致され、人口が急増した。かつての軍用地の転用例としては、例えば、第二鈴鹿航空基地はいくつかに分割され、昭和23年には早くも鈴鹿電気通信学園として起工式が行われている。
 鈴鹿市役所も、市制発足当初は、神戸町新町旧瑞竜院跡地にあったが、人工増加で手狭になり、旧神戸町役場より神戸矢田部町の現在地に移転か計画された。昭和28年から2年計画で、8,000m2の現在地に二期にわけて庁舎が建設された。市役所の新庁舎も昭和28年に市議場、消防本部などの第一期工事が竣工した。市役所本館、産業会館などの市役所の第二期工事は、市制施行12年の記念日の昭和29年12月1日に竣工、翌30年5月7日に落成祝賀の式典が行われた。このようにして、鈴鹿市が市としての機能が整備されてくると、新たに周辺地域の合併問題も起きてきた。まず昭和29年8月1日に、鈴鹿市の南部に隣接する河芸郡の三つの村、栄村、天名村、合川村が鈴鹿市に編入された。次いで、現在の鈴鹿市井田川地区が亀山市から鈴鹿市に編入された。つまり、亀山市小田町、泉和町、西富田町、中富田町は井田川地区と通称されているが、鈴鹿市の国府、加佐登と庄野に囲まれていて、鈴鹿市に取り囲まれた地域であった。亀山市の一部であったが、鈴鹿市との結びつきのほうが強く、かねてから鈴鹿市への合併の希望が強いところであった。井田川地区は、市制12周年にあたる昭和29年12月1日に鈴鹿市に合併された。(注3)

第2章 戦後からの転換
 昭和30年という年は、日本の戦後のいろいろな意味での転換期の年でもあった。西暦1955年のこの年、11月に政治の上では吉田茂の自由党と鳩山一郎の日本民主党とが合併し、保守合同が行われ、自由民主党が結成,,され、衆議院で298人、参議院で150人という戦後最大の国会勢力を有する政党ができた。社会党も左右の統一がなされ、いわゆる55年体制がここに確立した。
 また、トヨタのトヨペット・クラウンはこの年登場した。これは、国産技術のみで生産された乗用車の第一号である。それは、エンジンも特に開発されたものであったし、日本の道路事情を考慮した独立懸架車であり、日本の自動車生産技術がようやく一人立ちを始めたのであった。そして、東京通信工業(後のソニー)がトランジスターラジオを発売したのもこの年であった。自動車、ラジオと技術の先端を行く産業技術が大きく躍進する素地がこの年の前後に確立されたといえる。「もはや戦後ではない」ということが言われ出したのは、昭和30年のころからであるが、昭和30年という年は、政治、経済、技術の面において、まさに戦後からの転換の年でもあったといえる。
 鈴鹿市内の運動施設に関しては、昭和24年に開設した鈴鹿電通学園(現在のNTT学園)に、昭和28年にははやくも第二種公認陸上競技場が完成した。鈴鹿市における公認の陸上競技場の最初であった。この競技場を使って、各種の陸上競技会が開かれたのである。この競技場で陸上競技会が開かれたときには、筆者の勝田は当時神戸高校生であったが、頼まれてライン引きや競技の後かたづけを担当し、くたくたになるまでやっていたのをつい昨日のように思い出すのである。(注4)

第3章  日本のスポーツ
日本では、スポーツといえば、古来、武家にあっては、弓、馬、槍、剣、抜刀、短刀、手裏剣、十手、捕手、薙刀(ていとう、「なぎなた」のこと)、柔、棒、含針、もじり(袖がらみ)、砲、隠形(しのび)、水泳、鎖鎌を武芸十八般といった。中でも弓、馬、槍、砲、柔を六芸といい、特に重んじられた。その他に、射手が馬上から走路にそって立てられた的を射る流鏑馬(やぶさめ)、笠を的にした笠懸、犬を的にした犬追物(いぬおうもの)などの騎射術や、相撲、狩猟、歩射(かちゆみ)、馬術などが行われていた。江戸期に入ると、乗馬、剣術、弓射之礼、鉄砲、槍などが武家のたしなみとして習われた。京都三十三間堂の通し矢は最もスポーツ化した武芸であった。貞享3年に(13,053射中、8,133を射とおした紀州藩の和佐大八郎がいた。剣術、槍術、砲術、弓術、馬術、棒術などは、技法のほかに精神を重視する傾向が生じた。そうした武芸には剣道将軍家師範の柳生新陰流、棒術の神道無想流をはじめ、槍術、砲術などの武芸に多くの流派がうまれた。
 これに対して、公家は、蹴鞠と小弓がスポーツ的な遊技であった。蹴鞠(「しゅうきく」、あるいは、「けまり」)は8人の鞠足(まりあし)という競技者が、鞠を地面に落とさないように蹴り続ける競技で、日本各地でも行われていた。飛鳥井家と難波家はそれぞれ蹴鞠の流派を形成し、競技の様式を今日に伝えている。鈴鹿市に江島神社があるが、ここには「大宝殿絵馬」が残されている。白子の青龍寺の西に、明治42年に江島神社に合祀されて壊されるまでは「大宝殿」という社があった。この絵馬は、天明元年(1781)霜月28日にこの大宝殿が遷宮され、新しい社殿の完成を祝っての大宝殿に奉納されたものである。天明元年当時の白子江島の町並みを描いたものである。この「大宝殿絵馬」には蹴鞠をしているところが描かれている。上鞠(あげまり)をしていると思われる様子が描かれている。四隅の懸(かかり)として桜、柳、楓、松とおぼしき木がうえてある様子まで描かれている。蹴鞠の描かれていた場所は現在の鈴鹿市江
島の野嶋屋あたりと推定される。白子回船の経済力を抜きにしては考えられないことである。公家のスポーツが鈴鹿市の白子江島にも伝わっていた例証である。(注5)  庶民の遊技、スポーツ的なものは、競技系に歩射、綱引き、競馬、騎射、相撲、競走歩、タコあげ、競舟、力石、遊び系に、どんと焼きとして残る「左義長」(さぎちょう)、陰暦10月の亥の日、亥の刻を祝った「亥の子」、押し合い、投げ合い、舞踏系では、小歌踊り、獅子神楽、盆踊り、太鼓踊りなどがあった。
 明治維新を迎えると、これまでの武家や公家の遊技、武芸は急速に衰えた。代わって、西洋からのスポーツが普及しだした。陸上競技、サッカー、野球、体操、陸上競技、野球、サッカーなど、現代のスポーツは、明治の早い時期に日本に移入された。
 では、駅伝はどうかといえば、西洋にはないスポーツであった。そのため、すべては日本で考えらたものであった。大正5年2月27日には日本体育協会主催の「10マイル(16.094km) 断郊競走」などさまざまな競技がなされるようになっていた。

第4章 最初の駅伝競走
 大正6年(1918)は東京奠都(てんと)50年目に当たった。明治政府は、天皇の皇居を京都から東京に移したことを「遷都」とはいわなかった。「奠都」とは、「都を定める」という意味で、京都の御所はそのまま残した。明治天皇は、江戸城が慶応4年(1868)無血開城となると、明治元年(1968)9月に東京に向かった。12月に京都に戻り、翌明治2年(1969)3月(旧暦)再び東京に向かった。そして、3月28日に東京に着き、東京城を正式に皇居と定め、東京奠都がなされた。明治天皇が以降京都に戻ることはなかったので、これは事実上の東京遷都であった。(注5)
大正6年は、この東京奠都50周年にあたった。東京上野不忍池畔では「奠都記念大博覧会」が開かれていた。この奠都記念行事の一つとして、読売新聞社は京都から東京までのマラソン・リレーを企画した。読売新聞の社会部長の土岐善麿は大日本体育協会副会長武田千代三郎と相談し、この京都ー東京間のマラソン・リレーを、東海道53次の駅伝制(駅制)にちなんで、こうしたマラソン・リレーを「「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名することにした。
 コースは、京都三条大橋を出発点とし、途中に中継場所(なかつぎばしょ)として、草津、水口、北土山、(鈴鹿峠を越えて)亀山、四日市、(揖斐川は渡船して)長島、(木曾川も渡船して、七里の渡しは渡らずに)名古屋(熱田の杜を拝し)、知立、藤川、豊橋、新居(浜名湖今切の渡船に乗って舞阪に上陸し、浜松にて天竜川を渡船、仮橋を利用し)、見付、掛川、藤枝、静岡、興津、吉原、三島、箱根、国府津、大船、川崎、上野不忍池(池を一周し)大博覧会会場までの23 区間507kmと決められた。  選手選考は、東京付近の関東組を明石和衛、金栗四三、坂本信一が担当し、第一高等学校、早稲田大学、東京高師の学生が選ばれた。最年長は金栗四三27歳、5尺4寸(163.64cm),16 貫(60.0kg)であった。 最年少は、管村道太郎20歳、5尺5寸2分(167,27cm), 14貫(52.5kg)であった。名古屋付近の関西組の選考は、日比野寛、多久儀四郎が担当した。愛知第一中学校の生徒から選ばれた。最年長は、前愛知一中校長で、新代議士の日比野寛、52歳、5尺5寸(166.67cm), 16貫(60.0kg), 最年少は、水谷繁、15歳、4尺9寸(148.48cm)、10貫500匁(39,38kg)であった。年は数え年であるので、満年齢はこれより1〜2歳少なかった。大阪付近は、木下東作、高瀬養、春日弘が担当し、先週選考を重ねたが、東京、名古屋にかなうチームを編成することができなかった。結局、3団体の予定を2団体に減らして、京都ー東京間の駅伝競走をすることになった。
 大会役員には、加納治五郎日本体育協会会長、武田千代三郎、岸清一両日本体育協会副会長があたった。ついでながら、東京代々木の岸記念体育館は、法学博士で、体育関係団体の指導、育成に功績のあったこの岸清一体育協会副会長の名にちなむものである。中継所の審判としては、三重県亀山では大山敦道、四日市では永井鉄太郎、長島では久野省三らの名前が残っている。  関東組は、紫のタスキを、関西組は赤のタスキを中継ぎの証として、肩からかけて走った。、は宮城読売新聞が計画した京都から東京までのマラソンリレーが始まりである。(注6)   このマラソンリレーは、読売新聞社会部部長の土岐善麿と体育協会副会長の武田千代三郎とが相談して、このレースを東海道53次の駅伝にちなんで、「駅伝」と命名した。それ以降「駅伝」の名前は定着した。
 東京奠都50周年の大正6年4月27日午後2時に、関東組と関西組の二チームが、京都三条大橋を東京に向けて、508キロメートルの距離を23の区間に分けてスタートした。その模様を当時の新聞記事はこのように伝えている。
 「選手今、三条大橋中央の起点を出発せり。快晴無風、観衆おびただしく、全市歓呼の満つ。関東組は一高飯塚博氏、紫の運動服鮮やかに、関西組は愛知一中の多久四郎氏、赤の運動服軽し。  号砲一発(中略)正二時、委員医学博士木下東作氏が「用意」の懸け声とともに号砲一発、春霞青やかなる中天に轟くを合図に、両選手はエイとばかりに勇ましきスタアトを切り、一路東方に向かって疾走す。その刹那、橋上より三条通り一帯に埋まれる数千の群衆は盛んに万歳を連呼し、歓呼天地を震撼するばかり。」
 「小涌谷をにさしかかって紫の佐々木選手の長脚がいよいよ決死的飛躍を試みる頃には、夜はようやく連山の片隅から明けそめて、次第に山の合い、草木の茂みにまで匍(は)ひ寄って来る。遠く望めば松井少年飄々(ひょうひょう)たる姿は、七曲がりを一羽の蝶のように飛ぶ。」(注7)  これらの躍動感溢れる新聞記事は、記者の感動が時下に伝わってくるようである。この駅伝では、予定より3時間も早くなったため、沿道警護への配慮から、途中名古屋にて時間調節のため、3時間の休憩をとり、昼夜を問わず走り継ぎ、関東組殿(しんがり)の金栗四三が、奠都記念大博覧会会場にさっそうたる英姿を現し、観月橋を渡り、どよめき渡る歓呼のなかを不忍池を一周し決勝線に突入した。時に、4月29日、日曜日の午前11時34分であった。東京上野不忍池畔で開催中のした。遅れること1時間24分で、関西組の日比野寛が到着した。途中、関東組13区の吉積泰は見付を少し出た所でアキレス腱を切断し走行不能となり、14区の秋葉祐之が吉積の分も含めて走るというハプニングがあった。関西組は、当時の愛知第一中学校前校長で、52歳の新代議士日比野寛率いる愛知一中の生徒を中心とした18歳前後の23名、関東組は、日本初のマラソンランナーで、途中無念の棄権をした27歳の金栗四三率いる23歳前後の東京高師・一高・早稲田大学学生選手で編成されていた。  記録については、関東組は京都ー東京間23区、508キロメートルを41時間44分、関西組は、43時間08分で走破した。

第5章  駅伝の老舗 東京ー箱根往復大学駅伝競走
 こうしたことがあって、翌年の大正7年には明治大学の加藤富之助と山口六郎次とが東海道を14日間で走破。ついで、大正8年には明大の沢田英一と出口林次郎が札幌ー東京間を22日で走破、また東京高師の金栗四三と秋葉祐之も下関ー東京間を20日で走破していた。これらは個人の耐寒マラソンで、駅伝ではないが、駅伝の先駆的な性格をもっていた。アメリカにも似たようなマラソンが行われたことがある。ロスアンジェルスからニューヨークまでを人間の足で走るというものであるが、1928年C.C.パイルという興行師が企画し、実際に行われ、200名のランナーが参加し、チョロキー・インディアンのアンドルー・ペインが優勝者となった。当時の新聞は「グレート・パニオン・レース」(足にできる大きなまめのレース)の見出しで、連日その経過を報じた。これに想を得て、トム・マクナブは、小説「遥かなるセントラルパーク」(飯島宏訳、発行所 文芸春秋、1986年)を1982年に書き、ベストセラーになった。  日本で最も長い歴史と伝統を誇る駅伝は「東京箱根往復関東大学駅伝」である。大正9年2月14日に、第1回箱根駅伝は、早稲田、慶応、明治、東京高師の4校で行われた。10区間、125マイル(201.175キロメートル)のレースの結果は、東京高師が、15時間5分16秒で優勝した。
 「箱根駅伝70年史」という615ページの本が1989年に出版されて、その全貌を最近かいま見ることができた。同書によれば、箱根駅伝は、当初その大陸横断の駅伝の計画があって、その予選会という性格をもっていた。箱根駅伝のきっかけには、沢田英一、金栗四三、野口源三郎の三人のマラソンランナーの車中の夢語りから始まった。大正8年10月山口六郎次(明大、後の自民党副幹事長)は、自分の出身校の埼玉県鴻巣の小学校の運動会の審判員として、陸上界の大先輩野口源三郎(東京高師)、マラソンの金栗四三(女子高師教諭、現お茶の水大)及び明大学生沢田栄一(後に報知新聞社・名古屋および千葉支局長)を招いた。帰りの汽車の中で、金栗は下関ー東京間、沢田は札幌ー東京間、新潟ー東京間の耐寒マラソンはやったので、世界をアッと驚かせることをしたいな、と話し合っていた。丁度サンフランシスコーニューヨーク間を飛行機がその1週間前に飛んで、新記録を作ったことなどが報道されていて、まだアメリカ大陸横断駅伝にをした人はなかった。三人は意気投合し、すぐに話はまとまり、新聞社に後援を頼むなど、その後の動きは電光石火であった。
 大正8年10月下旬に、金栗は、小石川の女子師範に、早稲田、慶応、明治、帝大、高師、日大、中央、立教、農大、日歯などの代表を招いて協議し、賛同を得て、その場でマラソン連盟を作った。経費は5万円と見積もられた。報知新聞の賛同を得て、東京ー箱根往復、1校10人、寒い時期に2日がかりと決まった。しかし、実際に選手を10人揃えることは至難の技で、結局東京高師、明治、早稲田、慶応の4校しか応募できなかった。(注8)
 大正9年2月14日、土曜日の午後1時出発、有楽町の報知新聞前(現そごう百貨店)を出発した。1区鶴見、2区戸塚、3区平塚、4区小田原、5区箱根芦ノ湖湖畔までの5区間が第1日目、第2日目はその復路であった。
 出発の模様を当時の新聞は次のように報じた。 
 「『用意!』と叫んだ金栗審判官の声に、一同固唾を飲んだ刹那、本社の大時計は正1時を指し、金栗氏は手を一振り振って進めの合図をした。鉄脚は大地を蹴り、韋駄天のごとくまっしぐらに駆け出した。応援は熱狂して旗を振り声を揚げた。」  「午前九時、積雪既に二寸(6.06センチ)に及ぶ。参加選手は降雪とともに士気百倍して、中継所たる富士の湯旅館前は平塚を中心に本新宿一帯より観衆群がり来たり、たちまちにして傘のトンネルを築く。・・・十時二分五十秒、明大の得能選手意気揚々到着するや、十数名の明大学生、感極まって落涙する者あり。」(注9)
 箱根、小田原では手負の猪が出るというので、要所要所には青年団が鉄砲を持ち、選手が通過するたびに発砲し、銃口の火がこの間隠れに見えたという。また、間道や抜け道はいろいろ苦労して調べた者もあったが、結局誰も通る者はなかった。復路では二寸の雪で、肝心の役員の自動車が凍りついて動かず、全員間道伝いに小涌谷まで走り、電車に乗って小田原に間にあったということもあった。
 日本中を沸かせている箱根駅伝は、「何故箱根なの」、「だから箱根はやめられない」の名言を残し、その感動物語は70年余の歴史の中に枚挙にいとまがない程である。(注10)

第6章 鈴鹿市内駅伝の発祥(昭和30年〜32年)
 栄、天名、合川地区の三村と井田川地区の鈴鹿市への合併は、鈴鹿市の区域を広げ、合併を記念する行事がいろいろと考えられた。鈴鹿市連合青年団と鈴鹿市体育協会の関係者が話し合い、そうした企画の一つとして鈴鹿市内を一周する駅伝競走大会が開催されることになった。  駅伝それ自体に関しては、昭和28年12月には白子高校が三重県高校駅伝で優勝していた。この優勝を契機に、駅伝の楽しみを身近に経験した市民が増えて、駅伝への気運も市内に熟していたのである。鈴鹿市の駅伝大会の開催にいたる経過には、更に、井田川地区と河芸郡の三つの村、栄村、天名村、合川村の鈴鹿市への合併が大きな契機となっていた。駅伝の開催にあたっては、「市内の青年が相より鈴鹿市の合併発展を祈念して」という多くの人の願いが込められていたのである。
 鈴鹿市連合青年団長今井巌氏や副団長江崎恒夫氏は長距離選手として活躍の経歴があった。そうした経験も駅伝開催への大きな力となった。鈴鹿市役所においては、社会教育課が当初から参加団体募集の窓口になるなど、駅伝への全面的な協力があった。  駅伝開催の趣旨に関しては、第一回の青年団駅伝競走の大会パンフレットに次のように書かれている<。

 「市内の青少年が相より鈴鹿市の合併発展を記念して、友好親善を厚くし、健全な郷土社会の建設に寄与するため健康な心身の育成を図り、勤労青年のレクレーションとして駅伝競走を通じて之が目的の達成を期すると共に青年自らの自覚と将来への一層の努力を奮起させるための好機会となるよう実施する。」
 駅伝の名称については、昭和30年の第1回青年団駅伝競走のパンフレットに記された正式名称は、「町村合併記念第一回市内一周駅伝競走」とすることが明記されている。二つの地区の鈴鹿市への合併を祝う記念の駅伝大会であった。しかし、パンフレットの標題は、「第一回青年団駅伝競走」となっていた。青年団が駅伝の主体であった。名称に関しては、第2回目には、「第二回市内一周青年駅伝大会」となった。
 第1回の主催者は、鈴鹿市連合青年団と鈴鹿市体育協会であった。第2回目より、鈴鹿市教育委員会も主催者に加わった。鈴鹿市教育委員会は、この駅伝が定着した昭和41年の第9回大会からは、後援者になった。第2回目からは、毎日新聞社が後援者に加わった。  発足当初の参加資格は、鈴鹿市内各地区の青年団員であることが当時の唯一の参加者資格であった。そして、参加青年団の中には、新しく鈴鹿市に合併された二地区から、井田川、天名、栄、合川の4つの青年団が参加した。第一回の駅伝は、その他に牧田、玉垣、河曲、一の宮、神戸、国府、庄野、石薬師、稲生の合計13青年団が参加した。昭和30年当時は、鈴鹿市内では、商業、農業、あるいは漁業が主な産業であった。鈴鹿に進出してきた工場はまだ少なく、青年の多くは、いずれがの青年団に所属していた。大学生、高校生、中学生には参加資格が与えられなかった。例外として、定時制の生徒には学校長の許可により参加が認められた。高校生や中学生などに対しては、学校教育に支障があっては、との配慮があったのである。第2回目には、白子高校、第3回には神戸高校がオブザーバーとして参加した。「オブザーバー」も現在ならば「オープン参加」というべきところであるが、昭和31年当時の言葉としては「オブザーバー」であった。
 この大会の役員としては、名誉会長が鈴鹿市体育協会会長の服部庄右衛門氏、顧問が、杉本龍造氏、鈴鹿市陸上協会長北川輝雄氏、鈴鹿市社会教育課長清水要次郎氏、大会会長鈴鹿市青年団長今井巌氏が就任した。副会長には、江崎恒夫氏、林与左エ門氏、審判長は、鈴鹿市陸上競技協会理事長保古久一氏などの役員が就任した。その他、総務、記録、中継所役員など役員として、総数31名の名前が記録に残っている。その他多くの方々の協力を得ている。鈴鹿市の体育関係者の全面的な参加で行われた。5つの中継所の主任は、鈴鹿市内の中学校の体育主任が担当し、運営の主体は神戸高校OBがあたり、神戸高校、白子高校の生徒が分担して各種の役員として活躍した。勝田叡も記録員の一員として参加した。  鈴鹿駅伝のコースは、新しく合併された地区を含めて、市内のできるだけ多くの地区を通過させるように計画された。6区間47.6kmのコースであった。  各区間は、ほぼ大体8キロメートル前後で、あまり大きな差がないように考慮された。そして、選手や役員などが中継所として集まれるだけの広さのある場所が道路沿いにある所が選ばれた。  コースは、6区間、鈴鹿市役所を出発と決勝点とする47.6キロメートルが設定された。

第1回のコース内訳
 1区(8.3km): 鈴鹿市役所---河田---関西本線鈴鹿駅(現在の「かわ    の」駅)---石薬師旧道辻---上野町一里塚---定五郎橋---甲斐---牧田小学校    前
 2区(8.2km): 牧田小学校前---算所---旭ダウ---庄野小学校---汲川原---和泉    橋---平野神社前                        
 3区(6.4km): 平野神社前---国府---八野---合川(長法寺)     
 4区 (7.2km): 合川(長法寺)---御薗---木鎌辻---稲生町市役所支所前 
 5区 (8.5km): 稲生支所前---白子高校---白子---千代崎---若松駅東国道筋
 6区 (9.0km): 若松駅東国道筋---長太---一の宮小学校---須賀---鈴鹿市役所

第1回
 第1回市内一周駅伝は、昭和30年2月13日に、鈴鹿市役所前を出発、決勝点として、6区間47,6キロメートルで行われた。第1回の駅伝当時は、鈴鹿市役所の庁舎の第2期工事も昭和29年12月16日に竣工し、5月の落成祝賀記念式典をまつばかりであった。新装なった市役所の庁舎前において、合併で鈴鹿市に入った地区からも栄、井田川、合川の3チームを含む、13チームが参加した。6 区間47.6キロメートルの鈴鹿市内一周駅伝競走大会は杉本龍造市長のピストルを合図にスタートしたのであった。  レースは、1区で栄青年団の町谷がはやくもトップを独走し、2位の牧田青年団の前川に2分以上の差をつけて、牧田小学校の2区で待つ伊藤にたすきを渡した。伊藤も更に差を広げ、3区の平野神社で待つ市川に引き継いだ。市川も2位に差を広げ、4区の長法寺合川の坂に引き継ぎ、坂も更に差を広げた。5区の稲生支所前からの下津と、6区の若松駅東塩浜街道筋からの宮崎がやや差を縮められたが、2位の牧田青年団を1分3秒の差で振り切って、3時間5分17秒で新装間もない市役所前のゴールのテープを切って優勝した。そして、杉本龍造市長から市長旗を受けた。第2位は、牧田青年団、第3位は、玉垣青年団が受賞し、賞状を受けた。
 この市内駅伝は、関係者に大変な喜びとなった。3時間以上も市内各地の交通を制限せねばならなかったことで、予想されていたとはいえ、大変な交通問題もあったが、第2回目には区間延長の声が上がった。
 昭和30年当時、愛知学芸大学1年生であった勝田は、第1回目に、駅伝の経験者であり、またソロバンの腕があるということで請われて、この鈴鹿市内一周駅伝の記録係として参加した。勝田は既に、三重県高校駅伝において神戸高校チームのメンバーとして三年間走り、駅伝の楽しみは経験していた。以来40年を越すこの駅伝の記録集計のすべてに勝田は関係した。そして、記録を保管し整理につとめてきた。

 第2回大会は、昭和31年2月19日に行われた。この年は鈴鹿市中央公民館が設置され、社会教育関係においてもこの公民館が大きな役割を果たすようになった。駅伝の名称は「市内一周青年団駅伝競走大会」となり、主催者に鈴鹿市教育委員会が加わった。また、コースも大幅に延長され、7区間、53.1キロメートルとなった。しかし、当日の天候が悪かったので、開催日が1週間延期された。  この年は、第4回伊勢参宮駅伝が行われ、オール鈴鹿も参加して、3位入賞を果たした。こうしたことも、駅伝の人気を高めることになった。
 コースも第2回目は関係者の希望で延長された。
1区(8.3km): 市役所正面-----西条の税務署前-----一の田-----関西本    線鈴鹿駅、現在の河曲(かわの)-----石薬師旧道辻-----上野町一里塚    -----定五郎橋-----甲斐-----牧田小学校
 2区(8.5km):  牧田小学校前-----算所-----厚生寮-----住吉住宅-----    平田野中学-----庄野橋-----庄野中学校前-----汲川宗-----中富田----    西富田-----和泉橋北詰
3区(6.2km):  和泉橋北詰-----平和橋-----平野-----国府住宅-----国    府-----西の城戸-----八野南端倉庫前
4区(6.9km):  八野-----長法寺入り口-----三宅新田-----三宅町-----    徳居-----御園-----天名小学校南の辻
5区(8.4km):  天名小学校-----横知-----徳田-----稲生-----野町---    安塚神社前
6区(6.4km):  安塚-----飯野寺家-----神戸地子(かんべぢし)町---    矢橋-----肥田-----柳町-----土師(はぜ)-----中若松-----若松駅前の    踏切-----北若松-----箕田駅東方の国道筋
 7区(8.4km):  箕田-----南長太(みなみなご)-----長太小学校前---    池田町-----一の宮小学校-----高岡-----十宮三軒家(とみやさんげん    や)-----神戸ときわ町-----鈴鹿郵便局前-----北十日市-----市役所正    門前
 この53.1キロメートルのコースは、鈴鹿駅伝40年余の歴史の中で最も長いコースであった。この第2回に唯一回行われたのみであった。参加団体のコース延長に希望が強かったのと、毎日新聞社の後援が付いたことがコース延長に影響を与えたようだ。区間も1区間増やされ、7区間となった。算所・住吉を回って、国道1号線を越えて、中富田を迂回するコース、野町、安塚を迂回して、箕田駅東を回り、一の宮経由で市役所に戻るコースが設定された。文字通り鈴鹿市内を一周するコースであった。  栄青年団は、1区では、6位と出遅れて、チームが、3時間21分24秒で、昨年に引き続き優勝した。この駅伝には、白子高校のチームが正式の参加チームではなく、着順に入らないオブザーバーチームとして参加した。これは一般チーム参加の先鞭をなすものであった。
 昭和31年2月20日の毎日新聞の三重版には、「栄チームが二連勝 鈴鹿の地区対抗駅伝」の記事が載った。栄チームのアンカー坂行雄選手のゴール風景の写真とその記事を紙面を飾った。同日付けの毎日新聞の記事はこのように書かれていた。(注11)
 「鈴鹿市連青、市体協、市教委共催、毎日新聞鈴鹿通信部後援の第二回地区対抗市内一周駅伝競走は十九日久しぶりの快晴にめぐまれて、十一チームが参加して開かれた。各チームとも沿道の声援にこたえて力走したが、栄チームが昨年に引き続き二連勝をとげ、毎日優勝盾を獲得。ダークホースとのうわさにたがわず石薬師、国府がこれに続き、精鋭薮田を擁し昨年二位を獲得した牧田チームは五位におち予想外の成績だった。@栄3時間21分24秒・・・、なおオブザーバー参加の白子高校は、三時間二十四分十六秒で石薬師に続いた。」
 沿道には、毎日新聞社の用意した小旗を振り、多くの市民が駅伝を堪能した。 毎日新聞の同じ日の紙面には、一志郡町村対抗の駅伝が19日に開催され、白山町C組が一位になったことをを伝える記事が載っていた。また、伊勢市の15歳の戦災孤児木地延子さん(15)が愛に包まれて愛知県江南市の津田毛織株式会社に就職したことも載っていた。戦災孤児がやっと就職する時期であり、昭和30年、31年はもはや戦後ではないしにても、戦災孤児がようやく一人立ちする時期でもあった。

第3回大会は、昭和32年2月10日に行われた。久しぶりの快晴ではあったが、肌を刺すような寒さであった。コースは前年と大幅に変更になった。  大会会長に勝田藤太郎氏が就任された。コースは、7区、45.1キロメートルであった。特に、今回から天気に関しては、晴雨を論ぜず実施ということが事前に申し合わされた。
 1区(6.6km):  鈴鹿市役所正門----西条税務署前-----野辺-----甲斐    -----定五郎橋-----上野一里塚-----山の花-----加佐登駅
 2区(10.25km ) :  加佐登駅前-----庄野-----汲川原-----中富田---    西富田-----泉和橋-----平和橋-----平野神社
 3区(6.3km):  平野神社-----国府-----西の城戸-----八野-----長法寺 農協前
 4区(6.2km):  長法寺-----新田-----三宅-----徳居-----御園-----天    名小学校前-----徳田町横知交差点
 5区(6.6km):  横知交差点----徳田-----稲生小学校-----白子高校--    白子小学校
 6区(7.2km):  白子小学校-----江島町-----原永-----千代崎-----若松    -----箕田-----大木中学校
 7区(7.4km):  大木中学校前----長太-----池田-----一の宮-----高岡    -----十宮-----神戸-----鈴鹿市役所
 交通の激しい算所、住吉回りと、国道23号線を横切る若松コースが外された。そのため、距離は前年と8キロ少なくなった。
 白子青年団が、2時間47分58秒で2 位の井田川を9分余引き離して優勝した。この年、神戸高校がオープン(オブザーバー)で参加し、2時間48分37秒でゴールした。これは、参加第2位の好成績であった。  この昭和32年には、二つの合併が行われた。椿村と久間田村の地区が三鈴村となり、鈴鹿市に4月15日に合併した。また、6月15日には、三畑、追分、深溝の各地区が鈴鹿市に合併した。

第7章 一般チームの加盟(昭和33年〜38年)
 この時期は、鈴鹿市に進出する工場も増えてきて、日本経済も成長期に入り、鈴鹿市の住民構成なども大きく変化してきた。駅伝に会社単位、あるいは学校単位の参加希望が相次いだ。鈴鹿に工場進出してきた工場従業員のチームや高校にも参加枠が広げられ、市民駅伝競走大会を併行して実施するという形式がとられた。鈴鹿市体育協会が主催者に加わり、主催者はこれまでの、鈴鹿市教育委員会、鈴鹿市陸上競技協会、鈴鹿市連合青年団とあわせて4団体となった。主催団体と後援者との間で、その後若干出入りがあったが、鈴鹿市体育協会、鈴鹿市陸上競技協会、鈴鹿市連合青年団の三団体が中心となって運営された。大会会長は、森義明氏、審判長は、保古久一氏となった。

 第4回大会は、正式には、「第一回鈴鹿市一周市民駅伝競走大会、第四回鈴鹿市青年団駅伝大会」ということになった。新聞では、昭和33年、昭和34年の記事が欠落しているが、昭和35年2月8日の毎日新聞三重版では、市民駅伝と青年団駅伝の併行実施の駅伝を、「鈴鹿市一周駅伝」と見出しを付けた。  第4回大会は、昭和33年2月9日に開かれた。参加団体の構成に大きな変更が加えられた。従来の青年団の他に、一般の部をもうけて、希望チームに参加の道を開いたことであった。そして、名称も、第1回鈴鹿市一周市民駅伝競走大会、第4回鈴鹿市青年団駅伝競走大会の二つの大会が同時に、同じコースで実施されるという形式をとることになった。
 第4回大会のコースは、7区、41.0キロメートル。但し、この距離は、翌昭和34年の再計測により42.0キロメートルと訂正された。
 1区(5.7km):  鈴鹿市役所正門----西条税務署前-----野辺-----甲斐    -----定五郎橋-----国道1号線-----庄野小学校
 2区(5.7km ) :  庄野小学校-----汲川原-----西富田-----泉和橋----    平和橋---平野-----国府郵便局前
 3区(5.5km):  国府郵便局前-----西の城戸-----八野-----長法寺農協    前-----三宅・鈴鹿市役所合川出張所前三叉路
 4区(4.9km):  三宅・鈴鹿市役所合川出張所前三叉路----徳居-----御    園-----天名小学校前-----徳田町横知交差点----徳田農協前
 5区(5.6km):  徳田農協前-----稲生-----白子高校-----白子小学校    -----百五銀行白子支店前
 6区(7.2km):  百五銀行白子支店前-----江島町-----原永-----千代崎    -----若松-----箕田-----長太北詰
 7区(6.4km):  長太北詰-----池田-----高岡-----神戸常盤町-----神    戸十宮町-----鈴鹿市役所
 前回とは、国道1号線を横切るコースが、交通事情により外された。その結果、5キロほど距離が少なくなった。

 青年団大会には、13チーム、一般の部は、4チームが参加した。青年団の部は、牧田チームが2時間46分24秒で優勝し、一般の部は、2時間40分55秒で、旭ダウAチームの優勝であった。また旭ダウは、2チーム参加していて、Bチームの方も、2時間49分21秒であり、一般の部で4位、全体で5位であった。レースは、旭ダウAチームが、7区間中5区間で区間賞をとる力走で、2位の神戸高校と1分余の差で優勝した。

 第5回大会は、昭和34年2月8日に開かれた。青年団の部11チーム、一般の部5チームの、16チームにより行われた。コースは、初めて前年と同じであった。記録の前年対比が初めてなされ、7区間中4区間で前年を上回った。
 青年団の部では、一の宮青年団が2時間45分16秒で優勝し、一般の部では、大東紡が、2時間36分42秒で優勝した。一般の部にも新たに優勝旗が贈られ、持ち回りすることになった。  この年、本田技研鈴鹿工場が起工され、本格的な自動車の町の幕開けとなった。この年、天皇陛下ご成婚。また、岩戸景気おこる。

 第6回大会は、昭和35年1月5日に行われた。コースは前年と同じであった。この大会の「鈴鹿市一周駅伝大会要項」は、和文タイプで打たれていた。これまではガリ版で書かれた、謄写印刷であったが、この当時に和文タイプは珍しい時代であった。青年団の部は8チーム、一般の部は、6チームの参加であった。
 青年団の部では、白子青年団が2時間46分40秒で優勝した。第3回大会に引き続き、2回目の優勝であった。一般の部では、旭ダウAが2時間31分29秒で優勝をした。  この年、県立「青年の家」が岸岡に開設された。

 第7回大会は、昭和36年2月5日に行われた。コースに変更はなかった。  伴走は従来認められなかったが、チームに1台の自転車に限り許可することになった。  青年団の部で、庄野A チームが2時間55分9分で優勝した。一般の部では、旭ダウAが、2時間29分6秒ではしり、二位の旭ダウBと16分の差で、旭ダウの選手層の厚さと、圧倒的な強さを示した。この優勝は、全区間で最高のタイムであり、完全優勝でもあった。また四日市農芸高校は、鈴鹿市の陸上競技協会に登録しての参加であった。  この年に、市立鈴西小学校が設置された。

第8回大会は、昭和37年2月18日に行われた。青年団7チーム、一般7チームの参加であった。丁度この頃、道路で工事があった。優勝チームの記録は、新記録に相当したが、参考記録とされた。  青年団と一般との実力差が大きくなったので、出発時間を30分ずらし、一般をあとにしてスタートさせた。結果は、庄野Aチームが2時間39分16秒で連勝し、一般は旭ダウが2時間22分47秒で、3連勝した。  鈴鹿市役所の「鈴鹿市報」に鈴鹿市内一周駅伝競走大会のことが初めて、この年の3月15日付け、158号に載った。(注12)
 「市内一周駅伝  一般は旭ダウ、青年は庄野Aが優勝    毎日新聞主催、市教委、市体協共催の『市民、青年団市内一周駅伝競走大会』は、18日午前10時一般青年団14チームが参加して、杉本市長の号砲を合図に市役所前から青年チーム10時に 一般チーム10時30分 それぞれスタートし、7区間40.5キロメートルのコースで熱戦をくりひろげ、一般旭ダウAチーム、青年は庄野Aチームが昨年に引き続きそれぞれ好記録で優勝した」  この年、鈴鹿工業高等専門学校が設置された。鈴鹿サーキットが完成し、第1回のグランプリが開催された。本格的な自動車の町鈴鹿の始まりである。

 第9回大会は、昭和38年2月17日に行われた。青年団5チーム、一般4チームの参加であった。一般と青年団とで出発時間を30分ずらせ、一般を遅らせて出発した。青年団では、庄野青年団が2時間41分30秒で3連勝した。第4回から42キロに距離はなったが、旭ダウAチームは前年の記録には及ばなかったが、2時間23分12秒で、全区間で区間賞をとり完全優勝した。  鈴鹿市の電話は、この年に完全自動化がなされた。近鉄鈴鹿線が平田町駅まで延長された。この年11月22 日、ケネディ大統領が暗殺され、日米テレビ中継の最初の映像がケネディ暗殺のニュースであった。

第8章 一般チームの増加(昭和39年〜45年)
 昭和39年は、東京オリンピックの年であった。この時代は、工場進出もほぼピークを終え、本格的な技術革新が進んできた時代であった。駅伝にも、工場単位でチームを作って参加する傾向が一層強くなってきた。昭和39年は、一般の参加団体が初めて青年団の参加団体数を越えるようになった。

 第10回大会は、昭和39年2月16日に開かれた。青年団5チーム、一般9チームが参加した。  鈴鹿市教育委員会は、これまでの主催団体から後援者に変わった。特に鈴鹿高専を含めた学校関係から5チームの参加があった。青年団の部では、白子青年団が庄野に雪辱して、2時間42分50秒で優勝した。一般の部では、旭ダウAが、2時間24分49秒で5連勝した。初参加の鈴鹿高専は一般の部8位、鈴鹿市役所は9位であった。第10回大会を記念して、一般の部から旭ダウA、青年の部から庄野青年団が連続出場で表彰された。

   第11回大会は、昭和40年2月21日に行われた。青年団4チーム、一般10チームで行われた。  この年、本田技研が初めて参加したのが注目されたが、一般の部第9位であった。青年団の部では、白子青年団が2時間42分39秒で連勝し、一般では旭ダウAが2時間25分40秒で6連勝を飾った。この年、旭が丘小学校が設置された。

第12回大会は、昭和41年2月26日に開かれた。この大会では交通事情の厳しさから、国道23号線を横断し、近鉄名古屋本線の踏切を渡り、塩浜街道を通る若松、箕田を回るコースが外された。また、国道1号線を横断して北部の庄野に行くコースも交通事情の厳しさから外された。 しかし、この年から参加チームが14チームから、20チームへと大幅に増加した。
 大会会長は、小林良雄氏が就任された。  また、青年団と一般の部では、全コースを走るのに15分程度の差があったため、到着時間にあまり差がないようにと、若干の距離面での調整がなされた。そして、青年の部と一般に部のコースがつぎのように別々に設定された。青年団と一般とが同時出発となった。  青年団の部は、7区、31.4キロメートルであった。
 1区(5.7km) :  鈴鹿市役所正門----西条税務署前-----住吉運動場前野
 2区(3.8km) :  住吉運動公園前-----平野-----国府クラブ前
 3区(5.0km):  国府クラブ前-----西の城戸-----八野-----長法寺三叉路
 4区(2.8km):  長法寺三叉路-----天名小学校前
 5区(4.2km):  天名小学校前-----鈴鹿市役所稲生出張所前
 6区(3.9km):  鈴鹿市役所稲生出張所前-----白子中学校前
 7区(6.0km):  白子中学校前-----野町-----安塚-----鈴鹿市役所
 一般の部は、少し距離が長く、35.7キロであった。
 1区〜3区は青年団と同じ。
 4区(7.0km):  長法寺三叉路-----天名-----鈴鹿市役所稲生出張所前
 5区(3.9km):  鈴鹿市役所稲生出張所前-----白子中学校前
 6区(6.0km):  白子中学校前-----道伯駐在所前
7区(6.1km):  道伯駐在所前-----平田-----鈴鹿市役所前
 青年団の部は、6チームが参加し、一般の部では14チームが参加した。青年団の部では白子青年団チームが3連勝し、一般の部では、旭ダウAが7連勝した。  コース変更は参加チームにも影響を与えた。これまで青年団の部で最初から11回連続出場の庄野青年団は、自分の地域を駅伝が通って欲しいと強く希望したが、交通事情の故に認められず、ついに参加を取りやめた。駅伝が地域の道路を走り、地域の住民の応援があることが選手にどれほどの励みになっているかの一つの例でもあるといえる。

第13回は、昭和42年1月29日に行われた。青年団の部では5チームであまり変わりがないが、一般の部は、16チームが参加するにいたった。学校関係が9チームと大幅に増えたことと、鈴鹿に進出してきた工場が従業員のチームが7チームと増えてきたことが大きなことであった。  青年団の部では、昨年辞退した庄野青年団がこの駅伝に復帰してきた。白子青年団が4連勝した。一般の部では、全神戸高校チームが卒業生も含めてチームを造り、旭ダウの連勝を阻止してついに初優勝した。  この年4月1日に、鈴峰村の西庄内、東庄内、小岐須、小社、伊船、長沢地区が鈴鹿市に合併した。

 第14回大会(昭和43年)からは、出発地点が、市役所前から、近鉄鈴鹿線の鈴鹿市駅前に変更された。その他に変更はなかったが、距離を37.5キロメートルに保つために、出発とゴール地点など、若干の調整的変更がなされた。そして、青年団の部と一般の部と同一のコースを走ることになった。  また、この年から駅伝の2週間前の日曜日に鈴鹿市民ロードレースが始められた。一般、高校、高専男子は、10キロメートルを、高校、一般女子、中学男子は5キロメートル、中学女子は、3キロメートルを走る競技が、鈴鹿市営陸上競技場-----石垣池長距離競走路の間で開始された。様々な競技が市民レベルで実施されるようになった。
一般の部では、2チームを出す所が鈴鹿高専と大東紡とあった。旭ダウはこれまでの2チームから1チームに絞って参加し、優勝した。鈴鹿高専の卒業生でつくるOBチームもオープンの形で参加した。  青年団の部では、白子チームが、一般の部では旭ダウチームが優勝した。

 第15回大会(昭和44年1月26日)は、青年団の部 6チーム、一般の部9チーム、オープン参加が2チームあって、全部で21チームに達した。一般の部を一部、二部制に分けて、それぞれ別に表彰することになった。前年度6位までを一部とし、それ以外を2部とした。  青年団では庄野、一般の部一部では旭ダウが、二部では鐘紡が優勝した。  また、会長は北川輝雄氏に代わって、柴田嘉一氏が就任された。鈴鹿市体育協会会長には、保古久一氏から江崎達男氏が就任された。  一の宮小学校、庄内小学校が設置された。この年、いざなぎ景気おこる。

 第16回大会は、昭和45年1月25日に、青年の部9チーム、一般の部18チーム、オープン参加1チームの合計28チームが参加して行われた。前年が21チームであったが、本田技研が4チーム参加し、新しい団体の参加もあって参加団体数が増加した。駅伝参加への広がりをしめすものでもあった。青年団の優勝は、庄野青年団、一般の部第一部は、旭ダウ、第二部は鐘紡であった。 

第9章 駅伝の広がり(昭和46年〜50年)
 17回大会(昭和46年)から、青年団も一般と同一コースを走ることになった。鈴鹿市駅出発、鈴鹿市民会館着のコース、7区間、35.7キロメートルであった。本田技研が会社のさまざまなグループ単位で、駅伝に参加しだして、参加団体が30を越えるようになった。そして、この増加傾向は継続し、昭和50年代の後半はさらに増加し、昭和60年代初頭には90団体を越すまでになった。

第17回大会(昭和46年1月24日)
 青年団7チーム、一般17チーム、オープンで2チーム参加した。参加チームが、初めて30チームを越えたのである。この回より初めて大会要項に参加料の記載が載った。1チームにつき1000円が参加料として徴収されるようになった。これまでは参加料金は無料であった。駅伝の経費はすべて、鈴鹿市体育協会の経費で必要経費をまかなってきた。青年団は7チーム、一般は23チームの参加であった。参加チームの増加に伴い、出発を30分早めて、9時30分から出発となった。
 青年団は、庄野青年団が優勝し、一般一部は、旭ダウが優勝した。一般二部では、鈴鹿高専Aが優勝し、一般全体で6位となり、翌年からの一部昇格をきめた。昭和36年に初出場した本田技研が、旭ダウと優勝を争いをして、旭ダウが優勝、本田技研が2位という関係が4年続いたのである。また、本田技研からは昨年は1チームのみであったが、今年は4チームが参加した。   オープン参加の四日市工業高校は、1時間58分56秒の好記録をだした。これは、一般一部優勝の旭ダウの記録1時間59秒08秒を上回るものであった。

  第18回大会(昭和47年)から、コースも少し手直しされた。7区間、34.1キロメートルとなった。平田を回るコースが交通事情で外された。
 これまで、一般の部と青年団の部の距離を分けていたが、これから同じコースを走ることになった。開催日は、1月の最終日曜日とすることが申し合わされた。
 1区(5.4km):  鈴鹿市駅前-----西条-----三日市-----鐘紡正面前
 2区(4.0km):  鐘紡正面前-----本田技研前-----平野-----国府神社前
 3区(5.9km):  国府神社前-----八野-----徳居橋北
 4区(6.5km) :  徳居橋北-----御園-----稲生小学校前
 5区(3.8km):  学校前-----白子高校-----国道23号線-----白子中学校前
 6区(3.5km):   白子中学前-----旭が丘-----野町-----西山-----大日本製薬寮
   前
 7区(5.0km):  大日本製薬寮前-----三日市----中央道路-----鈴鹿警察署前---    鈴鹿市民会館前
 庄野青年団は、全員区間賞をとり、青年の部で2時間5分15秒で優勝した。 一般の部一部では、旭ダウは1時間49分44秒で優勝した。二部では白友会が1時間59分46秒で優勝した。  この年、県営青少年の森が開園された。

 第19回大会は、昭和48年1月28日に行われた。この年は、明治百年にあたり、記念行事などがいろいろ行われた。三重県でも、明治百年を記念して、鈴鹿サーキットの隣に、県立のスポーツセンターが完成した。陸上競技場、サッカー競技場、テニスコート、体育館をそなえたものである。また、鈴鹿市も、鈴鹿市立体育館が江島に完成した。副体育館、テニスコートをそなえた本格的な体育館である。石垣池公園も整備が始められ、野球場、プール、陸上競技場が整備されるようになった。鈴鹿市にも各種競技ができる競技場が整備されてきた。しかし、オイルショックでトイレットペーパーなどの買い占め騒ぎがおきた。
 市内駅伝競走大会も役員が交代した。
 会長は北村秀正氏、副会長 柴田嘉一氏、阿部茂氏、杉村一間氏、竹中和郎し、顧問には、杉本龍造氏、中川義一氏、参与に岡安健太郎氏、高木啓氏、鳴神達典氏、酒井末一氏、安達哲夫氏、小幡晃氏、荻野菊治氏、審判長に田中英之氏、総務に江崎達男氏、林正臣氏、兼京孝男氏、磯部清嗣氏、記録に、北川米次氏、市川利明氏、小菅義央氏、それに勝田叡も記録係に入ったいた。  一部中継点の名称、鐘紡正面が、逓信病院前に変更になったが、距離には変りはなかった。逓信病院は、平成8年より、NTT鈴鹿健康管理所と名称変更となった。 
 毎日新聞の記事によると、この日はときおり小雪がぱらついていたが、後半はからっと晴れた天気であった。参加チームも昨年の35チームから、46チームにと大幅に増加した。特に、本田技研からは、陸上部を始め、25チームが参加した。これは、駅伝の楽しさを多くの人が味わい、参加するようになってきたものである。2チーム参加には敷島スターチと鈴鹿高専があった。  青年団の部の優勝は、井田川青年団で、2時間7分7秒であった。一般の部一部では、旭ダウが、1時間51分16秒で優勝した。二部の優勝は、本田技研四和会Aであった。  この年、鈴鹿市立体育館設置、石垣運動公園開設、鈴鹿市勤労青少年ホーム完成。国鉄伊勢線完成など鈴鹿市内の施設が充実されていった。

第20回大会は、昭和49年1月27日に開催された。
 この年は、石油危機がなお続き、洗剤やトイレットペーパーの品不足が大きな社会問題となった。野菜も2カ月続いたカラカラ天気で、野菜全般が前年度比で、6倍にはね上がり、野菜の質も悪いことが新聞に報道されてた。
 前年を上回る参加チームで、60チームの参加があった。工場単位の参加数が増加し、青年団所属の選手が、一般の部のチームの一員としても参加するケースが目立つようになった。そのため、掛け持ちで出場することは禁止されなかったが、選手の健康状況については監督の責任で対処するようにとの注意書きが、この大会の実施要領に初めて記載されるようになった。また、参加料金が、1チームにつき、2000円に引き上げられた。
 青年団は、庄野Aチーム2時間3分11秒で優勝し、一般の部一部では、本田技研陸上部が1時間48分1秒で優勝した。これは、5年間続いた1位旭ダウ、2位本田技研陸上部を初めて覆し、本田技研陸上部の初優勝でもあった。この大会では、本田技研のチームは29チーム参加し、一般の部の総合成績で、10位までに、6チームが入るという選手層の厚さであった。第二部は本田モノコックが優勝した。この年、飯野高校設置された。

第10章 町まら街へと(昭和50年〜58年)
 市内駅伝競走大会は、青年の部と一般の部と合同開催の形を昭和58年の第29回までは継続していた。  第21回大会は、昭和50年1月26日に開かれた。この年「第21回青年団、第18回一般 鈴鹿市内駅伝競走大会」と題して、大会プログラムがこれまでのガリ版刷りから、活版印刷となった。表紙は近鉄鈴鹿市駅前の出発風景の写真が載っている。そして、杉本龍造市長の「・・町から街へと継走するこの駅伝競走は14万市民の心をつなぐ輪でもあります。」との祝辞の言葉は、鈴鹿の市民の応援を受けて行われているこの駅伝のよってたつ基盤を示す言葉でもあった。(注13)  また、この年は三重国体が行われた年でもあり、伊勢を中心に各種競技施設、道路などが一段と整備された。「国体までには」、を合い言葉に、県下の道路、運動施設などの社会資本が充実されていった。国体の24億円の運営費を考え「暮らしに役立つ」国体が叫ばれた。そして、この年4月末、杉本市長が退官された。杉本市長は、官選市長1年余、公選7期、合わせて29年2カ月間市長を務められて退任された。駅伝の始まった当時、新装なった市庁舎の前で、スタートのピストルを打たれてはや21年が過ぎていた。  また、大会プログラムには、北村秀正大会会長始め、役員159名、参加申請チーム50チーム、選手7名、補欠2名の約450名の氏名が載っている。駅伝大会の優勝チームと、開催日、参加チーム数、区間記録、大会記録、それに駅伝コース、7区間34.1キロの地図なども載せられている。コース地図には、誘導員のいる箇所、警察官の交通整理する箇所などが記してある。駅伝の歴史を伝えるものになっている。参加チームの内、青年団で1チーム辞退があったが、49チームが大会に参加した。参加料金は、1チームにつき3,000円に引き上げられた。
 青年団の部では、庄野Aチームが1時間57分22秒で優勝し、一般一部では、本田技研陸上部が、1時間46分4秒で優勝した。二部は、本田技研新星会の優勝であった。この年、市立労働福祉会館設置されれ、東名阪亀山ー蟹江間が開通した。  

 第22回大会は、昭和51年1月25日に開催された。野村仲三郎新市長は、「スポーツの栄光にかてても、また14万市民の期待に応える意味からも、・・・熱戦を展開していただきたい」との祝辞に、選手も新鮮な響きを感じとった。
 青年団11チーム、一般39チーム、オープン1チームの合計51チームが参加した。この日は、伊吹おろしが吹き付けたけれども、絶好の駅伝日よりであった。青年の部では、庄野A, 一般の部では本田技研陸上部、二部では、本田技研友邦会Aが優勝した。

 第23回大会は、昭和52年1月30日開かれた。この日は朝氷点下7度にまで下がったが、9時には2度まで上がり、好天に恵まれた。
 この年の大会プログラムには、鈴鹿市内駅伝競走大会24年間の「大会の歩み」が初めて載せられた。  大会プログラムには、これまでの活躍した選手として、日本選手権1500メートル優勝の薮田学(牧田青年団)、中日マラソン優勝の岡町隆郎(旭ダウ)、伊藤保(神戸高)、儀賀昇(全白子高)、本郷政人(鈴鹿高専)などの名前が挙げられていた。また、連続出場としては、都市対抗野球で活躍の本田技研硬式野球部の7年連続出場、鈴鹿高専OBチームの10年連続、23年連続出場の井田川青年団、10回優勝の庄野青年団、7連勝、14回優勝、20回連続出場の旭ダウなどが紹介されていた。鈴鹿高専OBは、オープンながら、勤務先が全国に分散しているが、それでもこの大会にはせ参じての10年連続出場であった。  今大会への参加は、青年団7チーム、一般45チーム、オープン1チームの53チームであった。青年団は、庄野Aチームが2時間40秒で優勝し、一般は一部で、本田陸上部が、1時間42分44秒で優勝し、庄野とともに4連勝を飾った。二部は本田技研親交会Aが優勝した。一般の部では、旭ダウが3区までは独走であったが、本田技研陸上部は、4区以降井上俊雄、三原利嗣、奥村恒夫、石井重光がいすれも区間賞を取る力走をして優勝した。
 また、本田技研のチームは全部で29チームが参加し、一般の部上位20位のうち、16チームを占める程であった。鈴鹿高専も3チーム出て、オープン参加の鈴鹿高専OBは10年連続出場であった。この年に、石垣池公園野球場が完成した。

 第24回は、昭和53年1月29日に行われた。
 この大会から、参加料3,000円のほかに、障害保険料として、1,000円を各チームは支払うことになった。学生チームが学校障害保険に加入しているために、この保険料は免除された。  青年団の部は、7チーム、一般の部は、47チーム、オープン参加は、1チームであった。気温も午前9時には、2.5度、快晴で、快適な駅伝日よりであった。一般一部では、本田技研陸上部は、7区間中6区で区間賞を出す力走をし、かつ1区の上村今朝男、5区の西山文夫が区間新記録をだして、終始独走し、5年連続5度目の優勝を1時間41分57秒で果たした。青年の部では、庄野Aチーム、一般二部では、本田四輪機械一課が優勝した。石薬師高校、鼓ケ浦中学校、鈴鹿市立西部体育館などの新設が相次いだ。

 第25回目は、昭和54年2月4日に開催された。
 これまでは、参加資格の中に、中学生は参加を認めない、との一項目があったが、この年の大会で初めて「中学生の出場は、監督が学校長の許可を受け、出場させること」というように参加資格に変更があった。中学生参加への道が開かれたのである。また、本田技研陸上部は、前年に12年ぶりに復活した東海地方の駅伝の駅伝の名岐駅伝に出場のために今大会は不参加であった。一般の部では、本田技研モノコックAが、1区で大差をつけて2区にバトンタッチした。しかし、旭ダウチームが2区で挽回し追い抜き、5区間で区間賞をとる力走をし、1時間41分45秒の大会新記録で6年ぶり、13度目の優勝をした。  青年団の部は、庄野青年団、一般二部は、本田技研親交会Aが優勝した。

   第26回大会は、昭和55年2月3日に行われた。今年も名岐駅伝に参加のため、優勝候補の一つである本田技研が欠場した。一般一部では、旭ダウが二連覇をとげ、青年団の部では、庄野青年団が、7連覇を遂げた。一般二部では、本田技研四和会Aが優勝した。

 第27回大会は、昭和56年1月25日に行われた。この大会に、平田野中学校のチームが、中学校チームとして初めて参加した。大会最高の67チーム、469名が参加して行われた。本田技研陸上部は、前年欠場であったので、第2部として出場した。一般一部では、本田技研モノコックAが1時間44分32秒で優勝し、二部では、本田技研陸上部が1時間43分3秒で優勝した。二部のチームが一部のチームより好成績で優勝したことになった。青年団は、箕田青年団が初優勝した。  中学校初参加の平田野中学校は、一般二部21位でゴールインし、特別賞として黒田憲章主将に野村市長からノートが贈られた。

 第28回大会は、昭和57年1月31日に、一般、青年団あわせて64チームが参加して行われた。この大会に、女子が男子に混じってチームの一員として初めて参加した。鈴鹿ランニングクラブの小山洋子選手と、鈴鹿高専陸上部Bの伊藤富雪選手である。また、この年聴覚障害者チームの「鈴聴障」も初参加し、完走した。女子選手も聴覚障害者も走ることの喜びを他の選手と共有したのであった。聴覚障害者チームは、7名全員が本田技研の会社員であった。「鈴聴障」チームは、国際障害者年のこの年、社会に完全参加し、平等に生きよう、との精神で1月に鈴鹿駅伝に参加を申し込んだ。12月からの練習は、順位よりも全員完走を目標に練習を重ねてきた。鈴鹿市内の手話サークルグループの「とちの実」も佐原謙二郎会長以下の会員が中継地点における世話役や、伴走車に乗って手話通訳者や世話役として応援した。アンカーの佐々木喜浩選手がゴールインすると、大きな拍手が起こった。(注14)  この大会から、参加料3,000円は据え置きであるが、障害保険が1チームにつき1,500円に引き上げられた。青年団は合川青年団、一般一部は、本田技研陸上部が優勝し、二部は本田技研トップEが優勝した。第39回大会までは、このコースが継続された。

 第29回青年団、第26回一般 鈴鹿市内駅伝競走大会は、昭和58年1月30日に、一般と青年団合わせて74チームが参加して行われた。昨年に引き続き参加した、「鈴聴障」チームは、一般二部に参加し、63チームの内、57位の大健闘であった。青年団の部では、庄野チームが優勝し、一般一部は本田技研陸上部、二部は旭化成陸上部が優勝した。旭ダウは、この年から旭化成と会社の名称が変わった。

第11章 統一大会以降(昭和59年〜昭和61年)
 第30回記念大会は、昭和59年1月29日に行われた。この大会は、記念大会のため、参加団体が10チームに満たない青年部を除き、一般一部10位、二部10位まで表彰された。  参加料は、青年団学生チームが、障害保険込みで、1チームにつき3,000円、一般チームが、5,000円に引き上げられた。
 青年団は4チーム、一般は、68チーム、鈴鹿女子選抜チームが特別参加で加わった。全部で、73チームの大会であった。女子の単独チームは初めてであるが、青年団は、庄野チームが、一般の部一部では、本田技研陸上部が1時間43分1秒で優勝した。この日、旭化成が1区で飛び出したが、本田技研が2区ではやくも旭化成を抜き、そのまま独走となって優勝となった。二部では、本田技研新友会Aが優勝した。  また、次のチームと人々が表彰された。
 20年以上出場チーム:  天名青年団(22年)、鈴鹿高専陸上部(21回)、    本田技研陸上部(20回)
 15年連続出場者:  三浦健彰、伊藤和徳、菊池啓二(敷島スターチ)
 大会功労者:  北川米次、今井巌、田中英之、勝田叡(いずれも大会の審判    や記録に尽くした人々)
 協力団体:  鈴鹿警察署
 また、30回を記念して鈴鹿女子選抜チームも参加した。  第30回駅伝が終わった翌日昭和59年1月15日の、毎日新聞三重版の「支局長だより」欄に鈴鹿駅伝についてに記事が載っていた。
 「生みの親の青年団チームは年々、少なくなり、今年の参加はわずかに4チーム。しかしそのまいた種"は大きく育ち、北勢地方最大規模のものになりました」とあった。生みの親の鈴鹿市の青年団からは近年参加団体は少なくなった。昭和30年に、鈴鹿市の青年団13チームで始まった駅伝も、駅伝は市内の青年達の間に根付き、この年は73チームが参加する大きなイベントになった。」  駅伝をはじめた頃の先人の労苦には、頭の下がる思いである。

 第31回大会は、昭和60年1月27日に、青年団3チーム、一般77チーム、特別出場として、中学校男子選抜、稲生高校女子陸上、白子中学陸上部が参加して行われた。青年団の部は、庄野青年団、一般一部は、本田技研陸上部、一般二部は、鈴鹿高校陸上部が優勝した。  鈴鹿高校はは、これまで13回参加しているが、いつも一般二部の20位以下の成績であった。そのためにこの初優勝は大変な喜びであった。全体にむらがなく、特のアンカーの稲垣君が区間賞をとる力走をした。

 第32回大会は、青年団3チーム、一般の部77チーム、特別出場3チームの83チームが参加して行われた。この大会は、特別出場として、中学校男子選抜、稲生高校女子陸上、三重県警チームが参加した。中学校や女子にも参加しやすい形式を関係者が検討し、中学校の参加の道を広げようとするものであった。
 青年団の部では、庄野青年団、一般の部では、一部本田技研陸上部が5回連続10回目、二部では、本田技研TOP会が優勝した。二部の白友会には、全国都道府県対抗女子駅伝で区間賞、最優秀選手賞に輝いた白子中学二年の長谷川まゆみさんが2区に参加して盛んに応援を受けた。  昭和57年に創立された稲生高校は、体育学科もあって、柔道や陸上などにも強い選手が育っているが、創立3年目の今年初めて本大会に参加して、第二部第6位と健闘した。 

第12章 中学校の参加
 第33回大会は、昭和62年1月25日に行われた。この大会から、中学校の部が新設された。青年団4チーム、一般の部86チーム、新設の中学校の部には、市内10中学のうち、8校のチームが参加した。特別出場として、三重県警、本田技研女子陸上チームが参加した。合計104チーム、728名選手の参加は、過去最高であった。
 青年団では、庄野青年団が2時間8分52秒で5年連続、18回目の優勝をした。一般一部では、本田技研陸上部が1時間40分51秒の大会新記録で6年連続、11回目の優勝をした。二部では、本田技研明友会が1時間46分36秒、新設の中学校の部では、平田野中学が1時間53分56秒で初優勝した。
 平田野中学には、新調の真っ赤な優勝旗が手渡された。また、特別賞として、オープン参加の県警機動隊、本田技研女子陸上部が表彰された。  市の陸上に貢献のあった、白子中学三年長谷川まゆみさん、本田技研鈴鹿、福本みずよさん、神戸高校豊田佳人君が特別表彰された。(注15)

 第34回大会は、昭和63年1月31日に行われた。青年団3チーム、一般の部83チーム、中学校の部9チーム、特別出場として、四日市から四日市工業高校、三菱化成の2チームの97チームが参加した。  青年団の部は合川青年団が優勝した。一般一部は、本田技研陸上部Aが、1時間41分17秒で優勝した。中学校の部は、白子中学校Aが1時間53分31秒で優勝した。一般の部二部は、本田技研陸上部Bが優勝した。

 大会開会式では、前年沖縄国体で、女子100メートルハードドルで優勝した永井智子さん(白友会、富士電気鈴鹿工場)が特別表彰された。選手宣誓は、神戸高校テニス部OB石坂健君が行った。参加チームの幅の広がりがこのようなところにも表れている。

 第35回大会は、平成元年1月29日に、7区間、34.1キロメートルのコースで行われた。青年団3チーム、一般77 チーム、中学校8チームの88チームが参加して行われた。一般二部74チームの合計94チームが参加して行われた。本田技研陸上部は、1区の宮脇、2区種瀬が力走し、独走となり、6区間で区間賞を取る力走をし、2位との差を2分29秒の大差で8年連続優勝を飾った。

 第36回大会は、平成2年1月28日に、青年団4チーム、一般76チーム、中学校8チーム、オープン参加として稲生高校女子陸上部を含め、88チームが参加して行われた。中学校の部では、平田野中学校が5区までトップを走っていたが、白子中学は6区の田川がついに追い抜いた。白子中学は、7区で平田野中学の追走をわずか1秒の差で振り切り優勝した。

 第37回大会は、平成3年1月27日に、青年団2チーム、一般90チーム、中学校8チーム、オープン参加として、稲生高校女子陸上部、神戸高校女子陸上部を含む3チーム、合計103チームが参加して行われた。  稲生高校女子陸上部は、前年の全国女子高校駅伝大会に県代表とした参加した。中学校の部では、白子中学と神戸中学が1区では同記録で2区にバトンタッチをし、白子中学は、2区、4区、5区で区間賞をとる力走をし2位の神戸中学と56秒の差をつけ、1時間54分54秒で連勝した。一般一部では、本田技研陸上部が、1時間39分23秒で大会新記録で優勝した。本田技研陸上部は1区の宮脇一浩は2位であったが、2区の田中政礼、3区の坂本秀樹、4区の三原周二、5区の柏原敏郎、6区の尾崎政則、7区の井上真司の6人が区間賞をとる力走で大会新記録を出した。中学の部では白子中学、一般二部では、本田技研モノコックEが優勝した。

 第38回大会は、平成4年1月26日に行われた。青年団3チーム、一般 72チーム、中学校8チーム、オープン2チームの合計85チームが参加して行われた。  青年団の部は、箕田チームが2時間30分21秒で優勝した。一般一部は、本田技研陸上部Aが、1時間40分7秒、中学校の部では、白子中学が1時間56分30秒、一般2部は、本田技研第一鋳機Aがそれぞれ優勝した<。
 青年団の部では、35回出場の庄野青年団が、平成2年を最後にチームを作れなくなっていた。今年は天名青年団が単独でチームを作れず、庄野青年団と合同でチームを作った。そして、合川青年団と箕田青年団もようやくチームをつくることができた。現代の生活様式が変化してきたのと、青年団としての活動が従来のように地域と結びついてしにくくなってきたのである。  一般一部では、1区のトップは五和会EXPER-Bの森下香月であった。しかし、本田技研陸上部Aは、2区では宮脇一弘が7人抜きでトップに出て、区間賞をとった。3区の坂本秀樹、4区の三原周二、5区の川上亨、7区に田中政礼ともいずれも区間賞をとる力走であった。

 第39回は、平成5年1月31日、一般77チーム、中学校8チーム、オープン参加2チームの87チームが参加して行われた。  一般一部は、本田技研鈴鹿が、1時間40分6秒で優勝した。中学校の部では、白子中学校が1時間53分42秒で優勝した。一般二部では、鈴鹿高校OBが、1時間47分48秒で優勝した。  今回ついに青年団はどこもチームを作ることができす、青年団の参加はなかった。鈴鹿市内駅伝競走大会40年誌全選手記録集において、勝田叡は「はじめに」の中で、「第39回大会では、青年団の部に参加がなく、さびしく青年団の部の幕を閉じる」と書いた。この駅伝のまさに生みの親であり、昨今の駅伝の隆盛は、青年団の方々の並々ならぬ熱意があって初めて可能であった。第1回大会の13青年団の中には、第1回大会のみ参加で、後はチームの作れなかった青年団もあった。しかし、そのまいた"種"はこのように大きくなったのであった。

 第40回大会は、平成6年2月6日、一般28チーム、中学校9チーム、オープン参加1チームの38チームが参加して行われた。  この年は、例年にない大雪がふり、予定日には道路事情がわるく大会が実施できず、1週間延期されて、鈴鹿青少年の森のトリムコースを周回するコースが採用された。29.7キロメートル・7区間で行われた。申し込みは、81チームであったが、1週間後の参加は38チームに減っていた。40周年記念大会のために横断幕も新調されたが、雪のため、道路の駅伝でなく、観客の応援も少なく、少し寂しい大会であった。
 一般一部は本田技研鈴鹿、二部は稲生高校陸上部、中学校の部は神戸中学校が初優勝した。

 第41回(平成6年1月30日)からは、もとの道路の7区間、31.4キロメートルに戻った。

まとめ
 我々は昭和30年にスタートした鈴鹿市内一周駅伝競走大会について、その概略の歴史を記述した。駅伝はわが国独自で発達したスポーツである。チームワークを基本におくこのスポーツが今や日本中において盛んに行われるようになった。奠都記念日に行われる駅伝は、祭典の華でもある。鈴鹿市内一周青年団駅伝競走大会は、昭和30年に始まったが、それは当時の鈴鹿市の青年団が中心となって計画されたものであった。町村合併を祝い、親善友好を熱くし、健全な郷土社会の建設に寄与することを目的としたものであった。
 青年団中心の駅伝は、4年後には既に一般の市民団体に門戸を広げることとなった。そして、昭和34年ころより昭和45年ころまでに鈴鹿への工場進出はおおよその目途が立ち、各工場の生産は軌道にのるようになった。それとともに、従業員数も増加し、職場単位の参加が目立ち始めた。昭和46年以降は工場も本格的な増産体制をとるようになり、従業員も急激に増え出してきて、特に本田技研工業の職場単位の参加が目立つようになった。また、特筆すべきは、身体障害者(聴力障害者)の参加が昭和57年よりあったことは、駅伝が健常者の記録に偏る駅伝から、障害者も正常な人と同じスポーツを楽しむことが出来るということを示すものであり、ボランティアの協力を含めて、駅伝がそうした人々にも楽しいものであることを体験してもらえたことを共に喜びたい。そして、62年度以降は、中学校にも参加の道が開かれ、鈴鹿市内の大半の中学校がチームを出すようになったことは、市民の応援の幅を広げ、市民融和の駅伝が定着しつつある証拠といえる。稲生高校に体育科が設置されて本格的な体育教育が始まり、駅伝にも本格的な好記録が期待されるようになってきた。記録面での楽しみと、参加することに意義を見いだす団体と並立した駅伝が今後も続くことを期待したい。

注釈
(1)   基礎資料
鈴鹿市陸上競技協会編 (編集責任者 勝田叡): 
   「鈴鹿市内駅伝競走大会 40年誌 全選手記録集」
   発行所 鈴鹿市陸上競技協会、 1995年3月発行  

鈴鹿市陸上競技協会編 (編集責任者 勝田叡):  「歩み」
   発行所 鈴鹿市陸上競技協会、 1994年3月発行 

参考文献
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   発行所 日本体育協会、 昭和45年3月1日発行
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   発行所 講談社、 昭和59年6月12日発行
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   発行所 大修館、 昭和48年10月1日発行
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   発行所 逍遥書院、 昭和56年7月31日増補版発行
鈴鹿市教育委員会編  「鈴鹿市史」 第三巻
   発行所 鈴鹿市役所、 平成元年3月31日発行
毎日新聞 三重版、北勢版 
   昭和31年〜平成8年の開催日の翌日
   開催は原則として毎年1月末日曜日、鈴鹿市内駅伝関係記事の総て
鈴鹿市内駅伝実行委員会編:  
   鈴鹿市内一周駅伝競走大会開催要項、パンフレットの総て
   発行所 鈴鹿市内駅伝実行委員会、昭和30年〜平成8年1月末
小松左京他企画:  「20世紀全記録」
   発行所 講談社、 昭和62年9月21日発行
自由国民社編:  「現代用語の基礎知識」 動く年表  1989年版
   発行所 自由国民社、 1989年
高津春繁他訳:  「世界文学大系」1ホメーロス 
   発行所 筑紫書房、 昭和36年12月25日発行
呉茂一他訳:  「世界文学大系」2 ギリシャ・ローマ古典劇集
   発行所 筑摩書房、  昭和34年6月30日
日本テレビ駅伝プロジェクトチーム著:  
   「箱根駅伝を10倍おもしろく見る本」
   発行所 講談社インターナショナル(株)、 1994年12月15日発行
入江克己著:  「日本近代体育の思想構造」
   発行所 明石書店、 1988年11月10日
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   発行所 陸上競技社、 昭和62年10月25日発行
関東陸上競技連盟編集:  「箱根駅伝70年史」
   発行所 関東学生陸上競技連盟、 1989年1月15日発行
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   発行所 国書刊行会、昭和56年4月25日発行
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   発行所 毎日コミュミケーションズ、 1987年9月26日発行
相賀徹夫編:  「ジャポニカ」ー3
   発行所 小学館、昭和43年5月20日
トム・マクナブ著、飯島宏訳:  「遥かなるセントラクパーク」上・下
   発行所 文芸春秋、 1986年8月25日発行


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